念い

 決して屈することはしないと手に剣を堅く握り締め

 まっすぐに前を見た。

 そして目に映ったものはただひとつ。


 戦いによってもたらされた現実


 いきいきと息づき輝いていた大地はもはやなく
 敵にも味方にも踏みにじられていた。

 アイーダは剣を持ったまま呆然と立ち尽くす…
 そして微かに震える。

 怯えでも怒りでもない…

 アイーダの胸の内を支配していたのは


 哀しみと虚しさ



 「これが…戦い…。」

 アイーダは知らずに呟いていた。

 心の何処かで何かが間違っているのではないかと囁く声がした。
 何か大切なことを見誤っているのではないのかと呟く声がした。




 その時、怒号のような声が聞こえてきた。
 誰かがアイーダの名を叫んでいた、知った声ではない。

 「エチオピア王アモナスロの娘アイーダ!」

 はっとした時に手から剣が落ちた。
 気がつけば周りを敵兵に囲まれていた。

 しかしアイーダは取り乱すことはしなかった。

 ふいに誰かがしがみついてきた。
 それは幼い頃からアイーダに仕えるファトマであった。
 アイーダを庇うように抱き、ただ何も言わずに敵兵を睨みつけている。

 そんなファトマを見つめ、アイーダは胸に想いがこみ上げる。
 それと同時に思い知った…ファトマは敵兵を憎んでいることを…

 ファトマは先の戦いで息子を殺されている。

 そのことをファトマは決して許しはしないだろう。
 それが母親というものだとアイーダは悟る。

 だが、それならばこの敵兵達にだって母もあり家族もあるだろう。
 味方に殺された敵兵達の母もきっと同じに私達を許すことはない。

 そして…ただ嘆き哀しみ憎しみ合うだけ…

 それが戦いが生む真実だとアイーダは思った。


 「エチオピア王女!アイーダだな!」

 更にそう言って取り囲んでいる敵兵の1人が剣を振りかざした。

 アイーダは咄嗟にファトマの腕から逃れ、自らその剣の前に出た。
 その敵兵はアイーダの行動が理解できずに思わず怯む。

 「アイーダ様っ!」

 ファトマの悲痛な叫び声が聞こえた。
 だがアイーダは落ち着き払った態度で敵兵に向かって話し掛けた。

 「私の命が欲しければ差し上げましょう…エチオピア王女として!」

 そうさせたのはこの国の王女としての誇りに過ぎなかった。
 それでもアイーダには死ぬことを怖れる気持ちは湧かなかった。


 「待て!」

 ふいに力強い静止の声が聞こえてきた。
 そしてアイーダの目の前に現れたのは1人の戦士だった。
 その戦士は周りにいる兵達に向かって言い放った。

 「戦いの決着はもうついた。王女を殺す必要はない。」

 勝利の宣言に兵達は歓喜に沸く。
 その中でアイーダとファトマだけが哀しみに打ち震えた。
 そのうちの兵の1人が戦士に問う。

 「ではこのエチオピア王女はいかがしますか?」

 問われてその戦士はしばらく考え込むとアイーダに向かって話し掛けて来た。

 「私と共にエジプトへ来て貰おう。」

 その戦士はそう言い、安心させるかのように微笑んだ。
 それでもアイーダは表情を強張らせたままでそっと尋ねた。

 「貴方は…?」

 そこでその戦士は初めてまだ名乗っていないことに気がついたようだった。

 「私の名はラダメス。エジプトの戦士だ。」

 アイーダはそっと小さくその名を反芻した。

 「王女…アイーダ。私と共にエジプトへ。」

 ラダメスのその言葉が何を意味するのかアイーダには理解できた。
 アイーダには否とすることができないことも…
 そして静かにラダメスを見つめ答える。

 「わかりました。」

 ファトマが俯き嗚咽を堪えているのをどこか遠くに感じながらアイーダは
 この国を、故郷を離れなくてはいけない現実をただ静かに受け入れた。







 離れていく故郷の景色を眺めながらアイーダは思う。

 父は…兄は無事だろうか…共に戦った者達は…

 もし…もしも父が兄が殺されでもしていたら…
 私はファトマと同じように敵兵を…人を憎むのだろうか…?

 そこまで考えて目を閉じる。
 きっとそうなれば辛い…ファトマを見ていれば解った。
 悲しくて辛い…けれど憎しみという感情を持つこともまた…
 いやきっとそれ以上に辛く苦しいことだとアイーダは思った。

 戦場で感じた思いがまた蘇る…


 虚しい


 それはなんと虚しいことなのか…

 戦いの中、強まる絆もあるだろう…
 けれど戦いの中、傷ついた傷は深く消しがたい。

 そしてそれは悲しみとなり憎しみと変わり恨みへと募るのだ。

 それがまた戦いを生む。

 戦いはまた続いていくのだ。きっと…。


 それまでアイーダの中で漠然とあっただけの想いが確信に変わった。

 エチオピアの王女ではなく、エチオピア人だからでもなく…


 たった1人の人間としての信念に!


 それは戦いの真実であり、そしてアイーダの真実となった。



 ―終―