Alstroemeria

 強くて逞しく、それでいてとても優しい腕に抱かれている私は
 この世界の他の誰よりも幸せなのだ

 だけどその腕に抱かれる度に私の胸に微かに過ぎるあの日々
 それを断ち切ったの誰でもない私自身


 わかっている…わかっているわ……けれど…


 こんな気持ちを持ってしまうのは私が女だからだろうか
 それともただ弱いだけなのだろうか

 この人の腕に抱かれながらこんなことを思うことはいけないことだろうか
 こんなことを思っている私をこの人の目にはどんな風に映るのだろうか

 そんな風に考えてみてもこの思いは消えてはくれなかった


 この穏やかでいて痛く貫く哀しいまでの郷愁の思いは



 ふいに私は怖くなりこの優しく抱きしめてくれる腕に更に縋りついた


 「…もっと…もっと強く抱きしめて…ラダメス」


 離さないで…離れないで…貴方の中に存在していたい
 それだけで私は誰よりも幸せなのだから


 「……アイーダ…」


 何かを感じ取ったのか…それとも何も感じていないのか…
 それ以上何も言わずこの強く逞しく優しい腕に更に強く力が込められた









 ギラギラと熱い太陽が照りつけ中庭の小さな泉や色鮮やかな緑に反射して
 より一層、明るく眩しく輝く城内の廊下はアイーダは1人走っていた
 正確には1人ではなかった、アイーダの後から必死に後を追いかける侍女がいた
 けれど侍女の足ではアイーダには到底、及ぶ所ではない

 「ア…アイーダ様ッ! もう少し落ち着いて…王女が廊下など走っては…ッ!」

 渾身の力を振り絞って息も絶え絶えに侍女が叫んでもアイーダは止まらない

 「構わないから、貴女は後から来なさい」

 アイーダは一度だけ振り返ってそう言い残しまた更に元気良く走り出してしまう
 それを見て侍女はとうとう廊下にへたり込んでしまう

 「構いますッ!アイーダ様ッ! 王女が廊下を走るなどはしたないことですよッ!」

 アイーダの遠ざかっていく背中に向かって最後にそう叫び、今度こそ侍女は息をついた
 そして息が整うと思いっきり深く深くため息をついたのだった

 その頃のアイーダは侍女が何かを言っていた気がするがそれどころではなかった
 早く早く…その思いだけでアイーダは走りつづけていたのだから


 目的の扉が見えてきてアイーダは輝いていた瞳を益々キラキラさせた
 その扉の前に立っていた兵士2人はそんなアイーダの姿を認め思わず顔を綻ばせた
 けれどすぐに自分達の任務を思い出すと慌ててアイーダを止めた

 「王女、少々お待ちください 今、王に取り次ぎを…」

 アイーダは一瞬だけ止まると首を少し傾けた
 そしてすぐに自分の前に立ちはだかっている兵士の間を素早く潜り抜けた

 「もうお仕事は終わったのでしょう? だったらいいでしょう?」

 アイーダは笑顔でそう言い放って自ら扉に手をかけた

 「…え? いやしかし…アイーダ様ッ!?」

 戸惑い困惑する兵士達をよそ目にアイーダは扉を開けた
 そして部屋の中へと勢い良く飛び込んで行く

 「お父様!」

 部屋の中央奥の大きな椅子に座っている父王の姿を認めると
 アイーダは迷わずに飛びついていった

 「お帰りなさいッ!お父様!」

 アイーダに抱きつかれた当の本人は少し驚きながらも頬を緩めた
 そしてアイーダの背に優しく腕を回しす

 「ああアイーダか…」

 エチオピアの王であるアモナスロは父親の顔に戻り
 優しく娘を抱きしめた

 「お父様、お土産ありがとう」

 「あれはアイーダの気にいったか?」

 「うん! けどお父様が帰ってきたことが一番嬉しいわ」

 アイーダは笑顔で答えた
 そんなアイーダの笑顔にアモナスロも思わず笑顔になる

 すると今までその様子を黙って見ていたウバルドが口を開いた

 「アイーダ、また侍女を置いて来たな」

 ウバルドのその言葉にアイーダは思わず首をすくめた
 そんなアイーダの様子には気づかずに更に続けるウバルド

 「それに取次ぎも無視して王の部屋に入るなど…」

 ウバルドの言葉に反論も出来ずに小さくなっていくアイーダ
 それを止めたのは他でもないアモナスロだった

 「まあウバルド、良いではないか 今日くらいは許せ」

 父王の言葉にウバルドは一旦口を閉じる
 しかしすぐに今度は父王に向かって反論した

 「父上はアイーダを甘やかし過ぎです!」

 ウバルドのその言葉に部屋の隅に控えていたウバルドに仕える
 若き家臣であるカマンテとサウフェの2人は心の中だけで呟いていた

 (………ウバルド様も王のことはいえない…)

 けれど王の前ということもあってあえて口には出さなかった
 もっとも王の前でなくてもウバルドの前でも口には出来ないけれど

 一方、そう言われた父王はのらりくらりとはぐらかしていた

 「そうか…?」

 そんな父王にウバルドはきっぱりと言い放つ

 「そうです!父上」

 そんな2人を見てアイーダは少し慌てていた
 自分が原因で2人が喧嘩しているのだと思ってしまった
 アイーダは父王の腕の中から抜け出すと2人に向き謝った

 「お父様 兄さん ごめんなさい…ごめんなさい…だから…喧嘩しないで」

 アイーダのその言葉に思わず口をつぐんでアイーダを見るウバルド
 内心慌てているのはきっと誰の目にも明らかだった

 そんな中でアモナスロだけは落ち着いていて軽く息をつくと
 またアイーダをそっと引き寄せた

 「心配いらぬ 別に喧嘩しているわけではない、アイーダ」

 温かな腕のぬくもりに少しだけ安心しながらもアイーダはそっと問う

 「本当…?」

 アイーダのその問いにアモナスロは優しく微笑みを向けて頷く
 そして更にウバルドにも同意を求める

 「本当だ なあウバルド?」

 「…あ…ああそうだよ、アイーダ」

 先程とはうってかわって優しい声で言うウバルド
 それを聞いてやっと安心するアイーダだった
 けどやっぱりアイーダが自分が悪いことしたのだと思い
 もう一度、ウバルドに謝った

 「うん、けど…ごめんなさい 兄さん」

 更なるアイーダの言葉にウバルドは目を逸らしつつそれに答える

 「…もう…いい お前の気持ちもわかるから…」

 微かにウバルドの頬の辺りが赤くなっているのをカマンテもサウフェも
 そっと見ないふりをした それにアイーダは気付いていないのか
 ウバルドに向かって満弁の笑みを浮かべていた

 そんな息子と娘を交互に見ていたアムナスロはそっと目を細めた
 けれどすぐにアイーダを抱き抱えると今度は穏やかながら諭すように口を開いた

 「アイーダ ウバルドが言っておるのはな、王族としての自覚を持てということだ」

 父王のその言葉にアイーダは瞳を開いて父王の顔を見上げる

 「お前はこの国の王女だ それに恥じぬような人間にならねばならん」

 アイーダにはよくわからない内容だったけれど真剣な父王の様子に黙って耳を傾ける
 その側でウバルドもまた真剣な顔で父王の言葉を聞いていた

 「それはなアイーダ お前が民から誇りに思われなくていけないということだ」

 父王のその言葉はアイーダには少しだけわかった気がした
 だからしばし考えたあと父王に問う

 「それは私がお父様や兄さんを誇りに思うのと同じように…?」

 そんなアイーダの言葉にアモナスロはただ穏やかな笑顔を浮かべ頷いた
 側にいたウバルドを見るとウバルドもまた優しく微笑んでいた

 「わかったわ お父様」

 本当は父王の言葉の半分もアイーダにはまだ理解できてはいないけれど
 少なくとも父王や兄や家臣であるカマンテやサウフェ達にとって誇りに
 思われる人間になろうとアイーダは温かい腕の中で思った



 そうなれるように…あの穏やかな時間の中で幼い頃に誓った大切な約束








 こんな運命になるとは夢にも思わずにいた頃の大切な約束

 結局、私はそうなることはできなかったんだろうか
 けれどそれは父王や兄もまたそうではないのだろうか

 胸の奥が鋭く痛んだ

 変わってしまったのだあの頃の私達とは
 アイーダは今更ながらにその事実を思い知る

 それは父王や兄だけではないアイーダ自身もまた変わった
 2人とはあまりにも違う方向へ けどそれはきっと運命

 けれど身内にとってその変化は哀れという感情で済まされないほど
 辛く痛い現実なのだとアイーダは漸く気付いた

 それは…それだけはきっと父王も兄も同じ気持ちなのだと…


 それを知ったアイーダにもはや溢れる想いを止める術はなかった




 「…アイーダ…?」

 少し戸惑ったように声がかかった
 その声を聞いて漸く少しだけ心が落ち着くけれど流れ落ちるものは止まらない

 ふいに瞳の中に戸惑いと不安と切なさに満ちた眼が映った
 貴方にそんな顔をして欲しくはないのに…
 アイーダはそう思ったけれど口には出せなかった
 そっとというより恐る恐るという感じで囁くような声が聞こえてきた

 「アイーダ…何故泣く?」

 それを聞いてアイーダは漸く自分が泣いていることに気がついた
 そしてその問いの答えを口には出せないこともまた知る
 アイーダは昔のように首を横に傾けながら答えた

 「さあ…幸せだからかしら…?」

 私は今、幸せだから…だからこそ自ら切り捨ててしまった大切な人々のことで
 こんなにも胸がいっぱいになって涙が止まらないのだろうか
 それともこの人のことだけを想って生きていこうと決めたのに
 結局はこの人のことだけを想って生きていけない自分が哀しいのか

 「幸せ…なのか? 貴女は…?」

 けれど私は更に問うその言葉に悠然と微笑んで答えた

 「ええ…幸せよ 私は幸せだわ」

 笑って貴方の眼を見てそう言ったのはそれは間違いなく真実だった
 私はきっとこの世界の誰よりも今、幸せな人間なのだ






 ただこの胸を痛い程に貫く郷愁もまたアイーダの中にある

 嘘偽りのない真実だというだけ




 あの幸福な日々に嘘偽りがなかったのと同じように



  −END−