さぁっと風が吹いた。

 どこまでも続く壮大で広大な中原の風が。

 その風に吹かれ、ふと青く晴れ渡った空を見上げると、何処からかその風にのって微かに
 漂う花の甘い香り。
 それは芳しくも清々しく、ずっと中原での戦いに明け暮れてきた私の心にとても優しく
 染み入ってくるようで思わずその場に立ち尽くしていると、今度は白い花びらがひらひらと
 舞いながら私の足元のすぐ側へと静々と辿り着く。
 何にも染まらずただ純粋に真っ白なその花びらを手に取り、もうそんな季節になったのだと
 流れる季節を漸く実感し、その香りに誘われるように足を運んでいた。

 その花の香りの正体は他の木々達とは少し離れたところに1本だけある梨の樹。

 少し離れた此処からでももう満開に近い程に咲き乱れている真っ白な花々は華やかでいて
 とても清々しい清純さに溢れていて、それに少しだけ羨望に似た感情が胸に過ぎる。
 ほんのしばらくそれに見惚れていると、樹の影に人の気配を感じ、自分の使命を思い出す。
 しかし、その人が誰かを理解するのに時間などかからなかった。

 宋国・皇帝が龍星様、その御方であった。私が唯一、絶対の君主と仰ぐその御方。

 龍星様はその花がお気に召したのか、静かに花を眺めているようだった。
 不審な者ではなかったことにとりあえず安堵し、改めて龍星様に目を向ける。
 そして、その光景に自分でも知らず知らずの内に小さく息を呑む。

 其処にいた龍星様がまるで違う方のように思えた。

 すぐにそんな馬鹿な思考を振り払いはしたものの、それでも宮中で玉座にいる龍星様とは
 確実な何かというものはないけれど、確かに別の方のように思えた。

 お1人でいらっしゃるからだろうか…それとも…


 そう思っていると私の気配を感じたのか龍星様がこちらに気づかれる。

 「…飛雪か。」

 そう声をかけられた途端、いつもと変らない龍星様がそこにいた。
 少しだけ、ほんの少しだけ、それが引っ掛かる。少しだけ哀しいと思ってしまう。
 それが出過ぎたことだと理解できてはいても。

 「はい。申し訳御座いません。邪魔をしてしまい。」

 そんな感情は押し隠し、その場に跪いて答える。
 龍星様はまた視線を梨の花に戻し、心ここにあらずな様子で口を開いた。

 「構わぬ。お前もこの花の香りに誘われて来たのか?」

 「…はい。」

 「そうか…。」

 そう呟かれるように言うと、すっと龍星様の腕が梨の樹の一枝に伸びた。
 それを察して素早く龍星様の側に近づき、樹の下に行く。

 「龍星様、私がお取りします。」

 そう申し出て、龍星様が取ろうとなされてた枝に私も手を伸ばそうとすると、
 それを龍星様の一言に遮られた。

 「構うな。下がっておれ飛雪。」

 そう言われれば従うしかなく、龍星様が白い花を適度につけた一枝を取るのを見届ける。
 命令さえ受ければ私が、宮中の誰でもが、龍星様の為に玉座の前に捧げるというのに、
 何のために御自らの手でこの花を取りに来られたのか。


 貴方様のためなら。この命にかえても惜しくは無い。

 はじめて龍星様と出逢った時、そう強く思った。
 それが私にとっての全てで、それ以上のことを望むこともない。
 これまでも、これからも、それは決して変わらない。
 ただ自分が知らない龍星様の姿を垣間見て、はじめて龍星様という方が見えて気がして、
 けれどまた何も見えなくなった気がして、この胸が僅かに翳る。

 「いつか…私にもわかる日が来るのでしょうか。」

 そう思った瞬間に思わず口に出してしまっていて、その自分の声に、言葉に、
 花を手にした龍星様がこちらを向く、その瞳が僅かに訝しげに揺らめいていた。

 「どうした、飛雪。」

 そう問われ、思わずそっと顔を伏せる、こんな場所だからだろうか。
 いつもの私らしからぬ言動に自分でも戸惑っていた。
 それでもなお答えを静かに待っている龍星様に答えるべく真っ直ぐに顔をあげた。

 「いえ、いつか私にも貴方様のお心がわかる日が来るのだろうか、と思いまして。」

 「朕の心?」

 龍星様の瞳が益々訝しげに揺れた。
 わかっている、それが出過ぎたことなどということは。
 それでも今、自分が命をかけて守るべき御方に伝えたかった自分の真実だ。

 「はい、その花を見つめておられる龍星様は私の知る龍星様とはまるで違っておられた。」

 龍星様の瞳が今度は何にかは推し量ることはできなかったけれど、少し驚いたかのように
 一瞬、激しく揺れた。見逃してしまいそうなくらい僅かなそれは何を意味してるのか。
 けれどそれはすぐに掻き消えて、次の瞬間には自嘲にも取れる笑みを浮かべていた。

 「そんなことでお前は突然、そんなことを知りたいと望むのか?」

 如何にも可笑しいと笑っているその瞳は笑ってはいなかった。
 龍星様がどうしてそんな笑みを浮かべられるのか、それを見たくはなくて目をそっと伏せた。
 それをどうにか消し去りたくて静かに、そして強く思いを込め龍星様に告げる。

 「私はそんなことが知りたいのです。いつの日か、龍星様のお心を。」

 告げた後も目を伏せていたから、龍星様が私の言葉にどんな顔をされたか知る術はなく、
 どれだけの沈黙の後であったか、龍星様がそっと溜息をつかれた。
 それをきっかけに漸く顔をあげると、龍星様がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
 そこにはさっきの笑みはなく、恐いくらいに、それ以上に哀しい目をした龍星様がいた。

 「俺の本当の心を知れば、お前は失望するだろう。」

 静かに龍星様が告げられる言葉を耳にし、頭に、心に、理解していく。
 けれどその言葉の理由を知りたいとは思わなかった。
 ただ龍星様がどんなお気持ちでそれを口にしたのか、知りたいと思うだけで。
 だから、私の中に確かにある心を口にする。

 それはこれまでも、これからも、変わらない。


 「龍星様、私が貴方様に失望することなどありません。」


 さっきと同じように、否、さっき以上に強くはっきりと龍星様に告げる。
 それを聞いた龍星様は何か言いかけようとして、それをやめる。

 「…そうか。」

 弱く息を吐くようにそっと呟かれた龍星様の心はまだわからない。
 龍星様はそのまま黙り込んで自分の手の中の花をじっと眺め、そっと固く瞼を閉じる。
 そして龍星様は黙ったまま踵を返して、その場から立ち去っていった。

 閉じられたその心のうちを知ることができたら、私は貴方様にそんな顔はさせないのに。
 だけど今はそれでもいいと思う。だから、いつか。

 龍星様のその後姿を自分もまた黙って見送りながら思う。






 それは花が、香りが、風の中で舞い踊る中で私が見た唯一の夢だったのだろう。

 望むことは許されない、見てはいけない、そんなものだったのかもしれない。

 それでも、ただ一心に繰り返す。





 今はまだ…だからいつか、いつの日か必ず…



 ― 完 ―